我々人間を含め、全ての生命は何らかのメリットのために行動する。ほとんどの行動は自己保存と種の繁栄のためであろう。動物が縄張りを主張し狩りをするのも、自己保存するに足りえる食料を確保するためである。また、体を大きくし、牙や爪を発達させるのも外敵を退け、己のDNAを受け継がせる子孫を残す確率を上げるためである。弱きものはひたすら隠れ、逃げ惑うことに特化していった。
しかし、人間はこのような本能むき出しのままでは社会生活できない。利己的な行動を慎み、理性ある協調性を持った行動をするよう教育されてきた。
昔話の「舌切雀」、「花咲か爺」など見返りを期待した下心を持つ者は下品であり、淘汰されるべきと教育される。これは「達磨不識」の逸話にもあるように、いくら神社仏閣に寄進し功徳を積んだところで、他人からの羨望や地位など見返りを期待すれば、もはやその行動には「徳」が失われていると言っている。
神社仏閣でよく目にする「浄財」。不浄なる金銭を納めることで功徳を得るというものだと思うが、すでにその行為を促すことで徳のないものだろう。民がそのような見返りを期待して寄付することに、もはや達磨不識の話と同じ、何の徳もない下劣な行為となってしまう。
逆に「鶴の恩返し」、「傘地蔵」など無償の奉仕は、徳であり、褒美を授かるとしている。しかし、高度な知性を持つ人間と言えど、本当にメリットのない行動をするものだろうか?傘地蔵で雪をかぶった地蔵に売り物の傘をかけたのも、その者が拠りどころとしている信仰に殉じたものであるかもしれない。鶴や雀を助けたのも、今言われている生物多様性に基づいた生態系の維持・環境保全を遵守ことで、結果的に人類にもメリットがあるという少々高度ではあるがやはり見返りがあるのかもしれない。
ほとんどの宗教で最も崇高な行為と言われている「自己犠牲」であるが、そんなものは細胞レベルで行なっているものであり(アポトーシス)、昆虫でもやっている。生命システムや種の維持のため効率的に犠牲になることは、DNAにプログラムされている。例えば、小さい子供が溺れていたら、ほとんどの場合夢中で助けにいくだろう。しかし、世俗に汚れた中年や死期が近い老人が同様の境遇にあるとき、同じ気持ちで救助に向かうだろうか?子供は自分より若く、細胞劣化が少ないために人間という大きな枠では自己を犠牲にしてまで助ける甲斐があるかも知れないが、救助隊でもない限り自分より年をとった劣化した個体を犠牲を払って助ける価値があるだろうか?周囲の視線や羨望を期待して行くかもしれないが、やはり無意識に計算してしまい、ドライヴィングフォースは前者より低いことが少なくないだろう。
はやり全ての行動には見返りがつきものであり、親の愛とて例外ではない。徳がある無償の奉仕というものは、知性や本能が欠落していない限り、ないのではないかと考えてしまう。まあ徳など考えず、周囲にDQNと見られないように利己的な本能をできうる限りの理性で押さえ、ささやかな協調性を持つくらいしか私にはできない。