縁あって、四国霊場八十八ヶ所を自転車で巡礼した。お遍路では各お寺で、本堂と大師堂にお勤めをする。お勤めとは、ロウソクを灯し線香を3本立て、納め札を入れてお経を唱える。
この読経というのがよくわからない。書いていることがわからないのもあるが、そんなことより何故お経を唱えて祈るのかわからなかった。
自転車で巡礼している膨大な時間の中で、般若心経の意味は何となく理解できた。存在の空観、時が万物にもたらす無常観、執着・我欲をなくし心を穏やかに保つこと、因習に捕らわれない悟故十方空、等々・・
しかし結局、結願を果たしても読経や祈りについては満足できる答えが出なかった。功徳ある行為と言われても、供養のためと言われてもピンと来ない。
最近は般若心経もそらで唱えられるようになって、何となく答えが出た。読経の目的は心の救済のため。お遍路で仏教に触れて洗われた心も、世俗にまみれて生きていれば再び汚れてくる。些細なことで怒り、感謝の心も忘れてまた元の無明に堕ちてしまう。お経はお寺の本尊や亡者に唱えるのではなく、自分の心に仏の教えを蘇らせるため。己の穢れた魂を浄化させるために唱えるべきと思う。
お大師様が言われるように、自分の中に仏を見つけ、生きながらに成仏できればこの世界を浄土とすることも可能かもしれない
そして、祈りについて。お遍路結願後、御朱印集めを始めたが寺社のご本尊に個人的な「お願い」をすることはなくなった。手を合わせて「滋賀県から来ました〇〇です。宜しく」と挨拶するだけ。迷惑にならない範囲で読経もする。御朱印とは、その寺のご本尊と縁を結んだ印、または写経を納めた証。仏さんもいきなり見ず知らずの者から、「〇✖を叶えてください!」と言われたら面食らうと思う。まずは名乗って挨拶するのが筋と言うものだ。心から叶えたい願いなら、日々研鑚して自力で達成できるはず。般若心経でも、仏さんはいつもそばで見守ってくれていると書かれているではないか。極限まで努力した上での最後の神頼みならまだしも、何もせずに他力は違うと思う